2 野田又夫訳のデカルトについて

 2 デカルト『方法序説』(1637, 第5部)、思考とことば 当該部分の翻訳(和訳、英訳、露訳)について〔20241113〕


〔1〕チョムスキー『デカルト派言語学』(Chomsky, Noam : Cartesian linguistics, 1966、川本茂雄・訳1970)


 わたし自身が「同定 Identify, Identification」という語(概念)を意識したのは、チョムスキー『デカルト派言語学』(1966年、川本茂雄・訳、1970年)のなかでのことだった。この概念の文脈的意味は平たく言えば、思考と言語の同定であった。

 チョムスキーは同書の「言語使用の創造的面」という章で、同定の概念を用い、その淵源をデカルトの『方法序説』第5部に求めている。デカルトはそこで、動物と人間の精神の相違を論じる際に、言語を取りあげている。


〔2〕上記「同定」の根拠となる部分のフランス語原文と和訳(野田又夫・訳)


 まずデカルトの書いたフランス語原文とその和訳(野田又夫・訳)である。


… les pies et les perroquets peuvent proférer des paroles ainsi que nous, et toutefois ne peuvent parler ainsi que nous, c'est-à-dire en témoignant qu'ils pensent ce qu'ils disent


〔カササギやオウムが言葉を発することを例にあげて〕しかし〔かれらは〕われわれのようには話すことができない。すなわち、自分が口にすること〔dire〕は自分が考えていること〔penser〕であるということを明らかに示しながら話す、ということはできない。(〔 〕内は神谷による補足)


 重要だと思われるがわかりにくい箇所〔赤字で示している。わかりにくいということについては後述〕は、文法の分析と文脈的意味の分析とを過不足なくおこなうことが特に必要である。ここで試みる文法的分析がデカルトの時代のフランス語文法にもあてはまるかどうかはあまりにも専門的になるのでその道の研究者に尋ねるほかはない。その点は少々結論の留保が必要となるが。


 ⦿ en témoignantは、que〔qu’〕以下のことを「示しながら」という意味であることは誰も異論はないだろう。témoignerは自動詞(「証言する」)と直接他動詞(「示す、表す」)とに解釈されるが、この場合は後者である。

 もっとも難しいのは、ils pensent ce qu'ils disent …の文法的解釈である。すなわち、解釈は2つの動詞(penser=考える, dire=話す)とce que〔qu’〕の理解にかかっている。

 まずils pensentのpenserについて。この動詞には自動詞〔考える・思う・思考する〕、間接他動詞〔penser à … を考える・思う・意図する〕、直接他動詞〔目的語は主に代名詞を取る〕の機能をもつ。野田又夫の解釈は自動詞である〔英訳・露訳はともに直接他動詞である。ここが文法上の焦点の1つである〕。

 disentのdireは直接他動詞〔... を言う・述べるなど〕であり辞書にはこれ以外の動詞の分類はない。野田の解釈は直接他動詞であり、かつ目的語が省略されたものであろう。 

 ce que〔qu’〕の意味は多義的である。野田の解釈は英訳・露訳の解釈〔後述〕と明らかに異なっている。野田の解釈は、ce queやce quiには、前文をうけて「それは」という意味がある、というものであろう。直訳すると、“かれらが考えていること、それは語っていることだ”となり、前文を強調するために、“語っていることは考えていることだ”となる。これが野田の文法的解釈だと思われる。


 ⦿このような文法的分析によって、デカルトにおける思考と言語をめぐる文脈的意味がかなり明確に浮かび上がってくる。『方法序説』の主要なテーマは「コギト」(わたしは思考する)を世界の認識と哲学の出発点にしていることであり、わたしという主体から出発して遠心的に物事や論理を理解することである。言語もまた例外ではない。“考えていること”を起点にして“ことば”を理解するのがデカルトにおける思考と言語の関係であろう。野田はこれにつながるように和訳し、しかもそれは上記のように文法に則っている。

 このことをチョムスキーは過不足なく理解したのか、またヴィゴツキーの場合とどのように違いが生じるのかは、後述したい。


〔3〕『方法序説』該当箇所の英訳と露訳


⦿Chomsky: Cartesian linguistics, p.60 より引用。

… magpies and parrots can utter words as we do, and yet they cannot speak as we do: that is, they cannot show that they are thinking what they are saying

 この英訳の場合、上記フランス語のpenserを直接他動詞、ce queを“que以下のもの”、direを直接他動詞と文法的に解釈し、「かれらは述べていることを考えている」と示すことができない、としている。


⦿露訳の場合。

... сороки и попугаи могут произносить слова, как и мы, но не могут, однако, говорить, как мы, т. е. показывая, что они мыслят то, что говорят, ...

 この露訳の場合も文法的には英訳と同じ解釈である。わたしたちのように「かれらは述べていることを考えている」と示しながら、話すことはできない、としている。


⦿英訳も露訳もpenserを他動詞と位置づけている。もしpenser à ce queというように、à があれば、まちがいなく他動詞〔間接他動詞〕であることに疑問の余地はない。このように考えるのが通例であり、英訳・露訳はこの点で無理が生じている。


〔4〕デカルトの「思考と言語」についてのチョムスキーによる理解


 ⦿ところで、『方法序説』該当箇所のチョムスキーによる解釈はかれの引用する英訳と同じものであろう。まず、この箇所から生じるチョムスキーの結論を示しておこう


Thus Descartes maintains that language is available for the free expression of thought or for appropriate response in any new context and is undetermined by any fixed association of utterances to external stimuli or physiological states (identifiable in any noncircular fashion).〔Cartesian linguistics, p.60〕


 ここで、チョムスキーがデカルトによりながら述べていると考えているわけだが、言語の意味的側面においては、“the free expression of thought”、“appropriate response in any new context”のために言語を利用することができる。ところでこれは、『方法序説』の全体としての論旨である「コギト」を起点とした遠心性が言語面で現れたものなのか、英訳の“they are thinking what they are saying”に示されているように経験的(もしくは直観的)な働きのためなのか。


 ⦿野田の訳文から生まれてくる考え方は前者であろう。とすれば、デカルトのなかに思考と言語との同定が認められると言いうるだろうか。言語は思考と連関していること、その場合の太い線は思考から言語へと引かれていること、これがデカルトから規定できることだろう。


 ⦿だが、それがどれほどデカルトに即しているのかは別にして、チョムスキーが思考と言語の同定を図ったことそのものは重要であろう。動物の言語はその種によって思考と完全に切り離されているわけではないが、どんな動物の言語でも人間の言語ほど思考と結びついていないことは事実であるからだ。だが同時に、ヴィゴツキーのとらえる思考と言語の関係(とくに『思考と言語』第7章)から見たとき、チョムスキーの言う同定は人間の思考と言語の部分的関係しか表していないことも事実であろう。その章のなかでヴィゴツキーは、“思いはあふれているのにそれを言語で表現できない”事例を取り上げている。つまり、思考と言語が同定できないことがあるのだ。ヴィゴツキーはしばしば、同一性(тождество)ではなく統一性(единство)の語を用いているが、思考と言語とはまさしく同一的ではなくて統一的である。


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